今日はまじめなやつです。
仕事をしていると思うことがあります。
それは、どうしたって可処分所得と購買行動というのは切り離せないんだな、ということ。
(※可処分所得というのは「稼いだお金のうち、実際に使えるお金」のこと。手取りですね)
それを感じたのは「同じ商品を贈答用で買う方と普段使いで買う方がいる」ということからです。
たとえばデパ地下で。
アンリ・シャルパンティエとか、
たねやのクラブハリエとか、
それこそとらやの羊羹とか、
わたしみたいな低所得者は
これらの美味しいお菓子たちをみると『贈答か来客用だな』と感じるのですが、
世の中には『ふだんのちょっとしたお菓子に』召し上がられる方がたくさんいるわけです。
「そんなことある?!」と思われる方もいるかもしれません。(私もです)
ですが、売る側になるといかにそういった方々がたくさんいらっしゃるかというのを思い知らされます。
「ジャンクフード」と「お菓子」という線引きをもち、区別されている方などが多い印象ですね。
(ジャンクフードは食べないけれどお菓子は食べる、というような…私などその線引きが分かりませんが。)
個人的には「バームクーヘン」といえばヤマザキのこの子たちなのですが、
世の中には「クラブハリエが日常な方」もたくさんいるわけですね。

これは今に始まったことでもなく、良いことでも悪いことでもなくただ「社会の現実」です。
高度経済成長期は有り余る富で「一億総中流」を生み出しましたが、再び格差のある元の社会に世界は戻ろうとしています。
そうした中で人々が経済的な面からも文化的な面からもお互いに分断された意識を持つこと、お互いに分かり合えないと思ってしまうことは分断を加速させ、現代のアメリカのように社会不安を呼びます。民主主義の危機です。
逆に言えば共通の価値観、分断を乗り越えて会話を出来るものがあれば
それは社会を安定化させる力を持ち得ます。
そうした中で日本におけるサブカルチャー、特にゲームは現在も、また未来においてもこうした分断を阻止できる可能性があると私は感じています。
経済・文化資本によって趣味が変わってくるというのは本当にそうなんですよね。
お金のかからない趣味というのはいくらでもあって、例えば教養(勉強)というのもそうだし、囲碁や将棋だってお金はかかりません。
ですがこうした趣味はある程度の文化的素養がないとその面白みが分かりにくい。それゆえに手厚い文化資本を持つ方だけが楽しむ傾向にあります。
その点テレビゲームは経済資本・文化資本の壁を乗り越えて万人の共通言語になり得る次の3つの特長をもっています。
①お金がかからない(経済資本の壁が低い)
1円もかからないという話ではありませんが、
乗馬や現代アート、高級腕時計と比べたら明白でしょう。
とくにテレビゲームの素晴らしいところは、
どれだけやり込んでもお金がかかるわけではないというところ。
スポーツでもゴルフなんかは練習するのにもお金がかかりますから。
②とっつきやすい、すそ野が広い、奥深い(文化資本の壁が低い)
お金がかからない趣味のなかでも、テレビゲームの特徴はとっつきやすいこと。
とくに最近のゲームはとても親切になりました。
ゲームというもの自体がコミュニケーションツールとしての側面を持つこともあり、友達の家に遊びに行って初めてプレイした、という経験のある方も多いでしょう。そしてその後おねだりして買ってもらった方も。
ゲームの面白さというのは比較的分かりやすいんですよね。あまり文化資本を要求しない。それでいて奥深い。
そのため、文化資本の高い方も文化資本の低い方も、テレビゲームというのはとっつきやすく、そしてハマることが出来ます。
またスポーツも似たような面を持ちますが、身体的なスポーツに比べてゲームは体力の壁・年齢の壁をも超えてくれます。
子供とお爺ちゃんが本気で戦えたりするのも良さですよね。
とくに世代間のギャップ、分断というのは日本でも非常に問題になっていますので大切なことです。
③子供のころに経験していることが多い
①②の特性上、テレビゲームは子供のころに経験していることが多いです。
しかもとっつきやすいわけですから、その楽しさも理解していることが多い。
分断を阻止するための共通言語として、これはとても大切なことです。
以上の①②③からゲームは経済資本・文化資本の壁を乗り越えて、お互いの理解を促進する共通言語としての趣味となり得、分断が広がるこの世の中においての救世主かもしれないと思いました。

別に難しい話ではなく、Twitterでゲームが趣味の皆さんと色んな壁を乗り越えて交流していると、そんな夢を見るのです。
世界がもっと優しくなりますように。
ディスタンクシオン〈普及版〉1 社会的判断力批判 (ブルデュー・ライブラリー) [ ピエール・ブルデュー ] |