こんにちは、にどねゆうきです。
旅と一口にいっても色んな旅がありますが、今回は身近な旅。
静岡県 伊豆の国市にある「韮山反射炉」に行った時のことを振り返ることが出来ればと思います。
こちらの反射炉は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産にも登録されています。
この産業革命遺産、「明治日本の」と頭文字がつきます。みんな分かっているし無粋なこととはいえ異議を申し立てたいのは、日本の近代化は江戸時代からすでに始まっており韮山反射炉はその代表格であるということ。
私が長々申し上げなくとも大河ドラマ「青天を衝け」をご覧になっている方はなんとなく空気感を読み取って頂いているかと思いますが、日本が近代化する話と政治の主導権が幕府から薩摩長州(明治新政府)に移るのは違う話なんですね。
分かりやすくするためとかそういうのはもちろん分かるんですが、「明治」とつけてしまうと江戸幕府なんもしてないという誤解を与えかねないなと心配してしまいます。幕府も薩長もみんながんばってますよと声を大にして言いたい!
葛飾北斎があの富岳三十六景を描いたのが1829年。
もうこのアートボックスの表紙なんか見ると、まさにめっちゃ江戸時代!って感じですよね。
歌川広重が東海道五十三次を描いたのはその4年後の1833年です。これもやはり江戸時代感満載でしょう。
東海道五十三次から二十年経たない1850年、佐賀藩が日本発の実用反射炉「築地反射炉」を建設。ペリーが来るのはこの3年後の1853年なので、なんとペリー来航前にもう近代化は始まっているんですね。
ペリーも来航してこれはやばいなと思った幕府、反射炉を建設して武器を作らねばと1853年にはこの「韮山反射炉」の建設を開始します。(※当時は伊豆の下田にて建設を開始しますが、翌1854年にペリー艦隊兵士の妨害にあい今の場所に変更)そして4年の歳月をかけ、1857年には反射炉が完成しました。
黒船来航前の将軍は12代の家慶、来航後は13代の家定ということでこの頃バリバリ江戸時代です。
ぜひ韮山反射炉へ行く際には、江戸時代にこんなに近代化が進んでいたんだ!!という感動を味わって頂ければなと思います。私はすごいなJAPANと感動しました。
と、長々と語ってしまいましたがそもそも反射炉とは何でしょうか。
正直なんか鉄つくるっぽいやつというぐらいのイメージしかなかったです。華麗なる一族に高炉が出てきましたがたぶんあんな感じのやつだろうと。
こちら反射炉の説明については、伊豆の国市のウェブサイトから引用させて頂きます。
ではなぜ良質な鉄を作る必要があったのかというと、良質な鉄を使って「鉄製の大砲」を作る必要があったからです。これは相次いで日本に出現する外国船を打ち払うために、長距離砲撃が可能な鉄製大砲が必要になったためでした。
ここで「あれ?日本にももともと大筒ってあったような...大坂冬の陣で撃ちまくってたよね」という疑問が湧いてきます」が、実はこの時点での日本の大砲は「青銅製の大砲」だったのですね。
こちらWikipediaから引用させて頂きます。
しかしそうせざるを得なかったとはいえ、見たこともないものを外国の本を読んで自力で作るって半端ないですね。当時の皆さまの絶対に作らねばという熱量と諦めない心には頭が下がります。
反射炉には「韮山反射炉ガイダンスセンター」が併設されています。(写真左)
奥に反射炉が見えますが、このガイダンスセンターの敷地内に反射炉があるので、ガイダンスセンターの入り口で入場料を支払って観覧する形になります。
ちなみに入館料は大人500円、小中学生50円です。安い。
ガイダンスセンターは非常にキレイでよく整備されています。
反射炉を目指しながら、展示コーナーで歴史やその意義を存分に学ぶことが出来ます。
内容は非常に充実していまして、とくに韮山反射炉づくりに大いに貢献した代官「江川英龍」に詳しいです。
正直なところ「代官」って何のことだかよく分かっていなくて、「悪代官」という言葉があるぐらいなのでロクなやつ居なかったんだろうなと偏見を持っていたのですがとんでもない間違いでした。
代官というのは要するに幕府直轄地で将軍の代わりに領主の仕事をする人のことです。
加賀百万石といいますが、江戸幕府の直轄地(天領・幕領)は四百万石以上あります。しかも地域もバラバラですから、小さな藩のようにお殿様が内政を行うことが出来ません。
そこでそれぞれの地方には「代官」が任命され、「陣屋」で行政を司っていたのです。
代官は旗本の武士としては最低ランクの身分になりますがやることの多い大変な仕事でした。
そんな代官の家柄であった江川家の江川英龍(1801-1855)。
彼は非常に優れた善政を敷き、「世直し江川大明神」と呼ばれ慕われていました。同時代を生きた二宮尊徳(二宮金次郎)の力も借りて、次々と領地を豊かにしていきます。
天然痘が大流行しているときにワクチン(種痘)を推進するなど、優れた技術をどんどん取り入れる名君でした。
そんな彼は領地での素晴らしいお代官様であるだけに留まらず、日本の将来を憂い、外国船が来るようになると海防の強化をすべきだと提案します。後の老中の阿部正弘に指示を受け、お台場を作ったのもこの江川英龍です。伊豆以外でも大活躍していたんですね。
ほかにも江川英龍には様々なストーリーがありますのでWikipediaより引用させて頂きます。
領地のことにも日本全体のことにも、これほどまでに活躍したお代官様のお話は私自身の不勉強でなかなか聞いたことが無く、江戸時代のイメージが変わるぐらいの衝撃を受けました。すごいよ江川さん。
韮山反射炉と周囲の美しい緑の景色が青空にとてもよく映えます。
青い空に向かって力強くそびえ立つ反射炉が、
まるで近代化に向けて青天を衝くような素晴らしい景色でした。
お近くにお立ち寄りの際はぜひご覧くださいね。
韮山反射炉ガイダンスセンター(静岡県伊豆の国市中260-1,055-949-3450)
旅と一口にいっても色んな旅がありますが、今回は身近な旅。
静岡県 伊豆の国市にある「韮山反射炉」に行った時のことを振り返ることが出来ればと思います。
こちらの反射炉は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産にも登録されています。
- “明治日本の産業革命遺産”と江戸時代
(韮山反射炉パンフレットより)
この産業革命遺産、「明治日本の」と頭文字がつきます。みんな分かっているし無粋なこととはいえ異議を申し立てたいのは、日本の近代化は江戸時代からすでに始まっており韮山反射炉はその代表格であるということ。
私が長々申し上げなくとも大河ドラマ「青天を衝け」をご覧になっている方はなんとなく空気感を読み取って頂いているかと思いますが、日本が近代化する話と政治の主導権が幕府から薩摩長州(明治新政府)に移るのは違う話なんですね。
分かりやすくするためとかそういうのはもちろん分かるんですが、「明治」とつけてしまうと江戸幕府なんもしてないという誤解を与えかねないなと心配してしまいます。幕府も薩長もみんながんばってますよと声を大にして言いたい!
(韮山反射炉パンフレットより)
葛飾北斎があの富岳三十六景を描いたのが1829年。
もうこのアートボックスの表紙なんか見ると、まさにめっちゃ江戸時代!って感じですよね。
歌川広重が東海道五十三次を描いたのはその4年後の1833年です。これもやはり江戸時代感満載でしょう。
東海道五十三次から二十年経たない1850年、佐賀藩が日本発の実用反射炉「築地反射炉」を建設。ペリーが来るのはこの3年後の1853年なので、なんとペリー来航前にもう近代化は始まっているんですね。
ペリーも来航してこれはやばいなと思った幕府、反射炉を建設して武器を作らねばと1853年にはこの「韮山反射炉」の建設を開始します。(※当時は伊豆の下田にて建設を開始しますが、翌1854年にペリー艦隊兵士の妨害にあい今の場所に変更)そして4年の歳月をかけ、1857年には反射炉が完成しました。
黒船来航前の将軍は12代の家慶、来航後は13代の家定ということでこの頃バリバリ江戸時代です。
ぜひ韮山反射炉へ行く際には、江戸時代にこんなに近代化が進んでいたんだ!!という感動を味わって頂ければなと思います。私はすごいなJAPANと感動しました。
- そもそも「反射炉」とは何か
と、長々と語ってしまいましたがそもそも反射炉とは何でしょうか。
正直なんか鉄つくるっぽいやつというぐらいのイメージしかなかったです。華麗なる一族に高炉が出てきましたがたぶんあんな感じのやつだろうと。
こちら反射炉の説明については、伊豆の国市のウェブサイトから引用させて頂きます。
ということで、良質な鉄を作るための高温を炎や熱を「反射」させることによって実現するのがこの反射炉ということですね。
反射炉とは、銑鉄(せんてつ・砂鉄や鉄鉱石から作った粗製の鉄で、不純物を多く含む)を溶かして優良な鉄を生産するための炉です。銑鉄を溶かすためには千数百度の高温が必要となりますが、反射炉内部の溶解室の天井部分が浅いドーム形となっており、そこに炎や熱を「反射」させ、銑鉄に集中させることで高温を実現する構造となっています。このように、反射させる仕組みから反射炉と呼ばれました。溶かした鉄は、鋳型に流し込んで大砲などに加工されました。過去にされた発掘調査では、砲弾の鋳型などが発見されています。炉体と煙突の部分を合わせた高さは約15.7m、実際に稼働した反射炉が残っているのは日本でここだけです。稼働当時、反射炉の周囲には各種の作業小屋や倉庫などが建ちならび、多くの職人が働いていました。(伊豆の国市ウェブサイトより)
ではなぜ良質な鉄を作る必要があったのかというと、良質な鉄を使って「鉄製の大砲」を作る必要があったからです。これは相次いで日本に出現する外国船を打ち払うために、長距離砲撃が可能な鉄製大砲が必要になったためでした。
ここで「あれ?日本にももともと大筒ってあったような...大坂冬の陣で撃ちまくってたよね」という疑問が湧いてきます」が、実はこの時点での日本の大砲は「青銅製の大砲」だったのですね。
こちらWikipediaから引用させて頂きます。
というわけで、外国船と戦うために必要な高精度な大砲を作るために必要だったのがこの反射炉だということです。
江戸時代後期になると日本近海に外国船の出没が増え、海防の必要性が問われるようになった。外国船に対抗するには精度が高く飛距離の長い洋式砲が必要とされたが、従来の日本の鋳造技術では大型の洋式砲を製作することは困難であり、外国式の融解炉が求められることとなった。 外国の技術者を招聘することが叶わない時代でもあり、伊豆韮山代官の江川英龍、佐賀藩の鍋島直正などが、オランダの技術書(『鉄熕鋳鑑図』Ulrich Huguenin原著、金森建策訳)等を参考に作り始めた[2]。江戸時代末期に、技術水準の差はあったが伊豆国、江戸、佐賀藩、薩摩藩、水戸藩、鳥取藩、萩藩、島原藩などで主に洋式の野砲の砲身を鋳造するために反射炉が作られた[2]。
これらは幕府による伊豆国の韮山反射炉や江戸の滝野川反射炉を除き、主に幕藩体制の藩が中心となった。
なお、鳥取藩では郷士で廻船業を営む武信家によって進められ、また島原藩では民間人の賀来惟熊によって進められた。鋳造された砲は、幕末には外国勢力への牽制として、また戊辰戦争などの実戦に用いられたとも言われているが、定説となってはいない。反射炉に必要とされた耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用されるなど、歴史の転換に重要な役割を担った。反射炉の製造技術の導入が、日本史において特記されるのは、鉄製の大砲の製造が可能になったからである。かつての鋳造技術では砲身を鉄で製造する場合は材質を均一にできず、砲身が破裂する事故が多発した。そのため大砲は鉄製から青銅製へと"進化"していった。
しかしその後の技術発達において、鉄製であっても材質を均一に砲身を鋳造する事が可能になり、再び鉄製の大砲が登場するが、日本では青銅砲の段階で技術が停滞したままであった。反射炉による鉄製砲の製造は、日本にとって鎖国下の技術停滞、開国による技術革新の象徴的な出来事となった。(Wikipediaより)
しかしそうせざるを得なかったとはいえ、見たこともないものを外国の本を読んで自力で作るって半端ないですね。当時の皆さまの絶対に作らねばという熱量と諦めない心には頭が下がります。
- 反射炉と代官江川氏について学べる「韮山反射炉ガイダンスセンター」
反射炉には「韮山反射炉ガイダンスセンター」が併設されています。(写真左)
奥に反射炉が見えますが、このガイダンスセンターの敷地内に反射炉があるので、ガイダンスセンターの入り口で入場料を支払って観覧する形になります。
ちなみに入館料は大人500円、小中学生50円です。安い。
ガイダンスセンターは非常にキレイでよく整備されています。
反射炉を目指しながら、展示コーナーで歴史やその意義を存分に学ぶことが出来ます。
内容は非常に充実していまして、とくに韮山反射炉づくりに大いに貢献した代官「江川英龍」に詳しいです。
正直なところ「代官」って何のことだかよく分かっていなくて、「悪代官」という言葉があるぐらいなのでロクなやつ居なかったんだろうなと偏見を持っていたのですがとんでもない間違いでした。
代官というのは要するに幕府直轄地で将軍の代わりに領主の仕事をする人のことです。
加賀百万石といいますが、江戸幕府の直轄地(天領・幕領)は四百万石以上あります。しかも地域もバラバラですから、小さな藩のようにお殿様が内政を行うことが出来ません。
そこでそれぞれの地方には「代官」が任命され、「陣屋」で行政を司っていたのです。
代官は旗本の武士としては最低ランクの身分になりますがやることの多い大変な仕事でした。
そんな代官の家柄であった江川家の江川英龍(1801-1855)。
彼は非常に優れた善政を敷き、「世直し江川大明神」と呼ばれ慕われていました。同時代を生きた二宮尊徳(二宮金次郎)の力も借りて、次々と領地を豊かにしていきます。
天然痘が大流行しているときにワクチン(種痘)を推進するなど、優れた技術をどんどん取り入れる名君でした。
父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られるが、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。
英龍は自身・自身の役所・支配地の村々まで積極的な倹約を実施した。一方で、殖産のための貸付、飢饉の際の施しは積極的に行い領民の信頼を得た[7]。
また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した[1][8]。
こうした領民を思った英龍の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。現在に至っても彼の地元・韮山では江川へ強い愛着を持っている事が伺われる。(Wikipediaより)
そんな彼は領地での素晴らしいお代官様であるだけに留まらず、日本の将来を憂い、外国船が来るようになると海防の強化をすべきだと提案します。後の老中の阿部正弘に指示を受け、お台場を作ったのもこの江川英龍です。伊豆以外でも大活躍していたんですね。
ほかにも江川英龍には様々なストーリーがありますのでWikipediaより引用させて頂きます。
というわけで、幕末のこの時期の出来事にだいたい絡んでいるすごい人です。
■ 学問を佐藤一斎、書を市川米庵、詩は大窪詩仏、絵を大国士豊や谷文晁、剣術を岡田吉利(初代岡田十松)に学ぶなど、当時最高の教育を受けている[17]。
特に剣術は、神道無念流免許皆伝で岡田十松の撃剣館四天王の一人に数えられ、同門で後に代官所手代となる斎藤弥九郎は、江戸三剣客の1人にも数えられている。その他、蘭学、砲術などを学んだ。■ 国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目して兵糧パン(堅パンに近いもの)を焼いた人物である。日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれており、江川家の地元伊豆の国市では「パン祖のパン祭り」が例年開催されている。(なおパンの伝来自体は1543年に種子島に来たポルトガル船によって鉄砲といっしょに伝来し、その後の宣教師の布教活動とともにパン食の普及も始まり、織田信長が食べたという記述も残っているがキリシタン弾圧や鎖国によってしばらく途絶えていた[18])。■ 英龍は屋敷近隣の金谷村の人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織したとされる。今でも日本中で使われる気をつけや右向け右や回れ右等の掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと親族の石井修三に頼んで西洋の文献から日本語に訳させたものである[1]。■ 戦国時代から江戸時代初期にかけて江川家では日本酒が醸造されていた。これが「江川酒」である。 鎌倉時代や室町時代、京において造り酒屋が隆盛しており、京の以外の地方でも他所酒(よそざけ)として日本酒が盛んに造られていた。地酒のはしりである。■ 江川家の支配地域には武州多摩も入っており、英龍が佐藤彦五郎のような在地の有力な名主たちと共に農兵政策や自警活動を勧めた為に、多摩の流派である天然理心流を学ぶものが増えそれが後の新撰組結成に繋がった。新撰組副長・土方歳三は義兄である佐藤彦五郎を通じて英龍の農兵構想を学んでいたと言われ、身分を問わない実力主義の新撰組は英龍の近代的な農兵構想の成果ともいえる。■ 林業にも精通しており、高尾山にスギの植樹を行っている。英龍が植えたスギは、平成21年(2009年)現在で樹齢147年に達しており、高尾山で最も古い部類の人工林(江川スギ)となっている。■ 13代将軍・徳川家定の御前でペリー献上の蒸気機関車を初めて運転したとも言われる。■ 福澤諭吉が英雄として『自伝』で取り上げており、江川家の江戸屋敷(芝新銭座の旧大小砲習練場、後に江川氏塾となる)が幕府瓦解後、柏木忠俊の配慮で福澤に払い下げられて慶應義塾舎となり、門は韮山高校に運んで今の表門となっている[22][23]。(Wikipediaより)
領地のことにも日本全体のことにも、これほどまでに活躍したお代官様のお話は私自身の不勉強でなかなか聞いたことが無く、江戸時代のイメージが変わるぐらいの衝撃を受けました。すごいよ江川さん。
- 青天に映える韮山反射炉
韮山反射炉と周囲の美しい緑の景色が青空にとてもよく映えます。
青い空に向かって力強くそびえ立つ反射炉が、
まるで近代化に向けて青天を衝くような素晴らしい景色でした。
お近くにお立ち寄りの際はぜひご覧くださいね。
- 韮山反射炉へのアクセス
韮山反射炉ガイダンスセンター(静岡県伊豆の国市中260-1,055-949-3450)