• 「100分de名著」と「華氏451度」
こんにちは、にどねゆうきです。
私の好きな番組にNHK教育テレビ(Eテレ)の人気番組「100分de名著」があります。
1冊の本について1ヶ月をかけ、25分×4回放送で紹介するこの番組。6月の特集は「華氏451度」でした。


(ご存知ない方へ:華氏451度について…
NHKウェブサイト プロデューサーAのおもわく より)

「人間にとって本とは何か?」「思考や記憶のかけがえなさとは?」「権力者の論理とは?」

「反知性主義」という思潮が猛威を振るう中、SFという手法を使って、私たちにとって「思考する力」や「記録することの大切さ」などを深く考えさせてくれる文学作品があります。レイ・ブラッドベリ「華氏451度」。名匠トリュフォー監督による映画化、オマージュ作品として映画「華氏911」が撮られるなど、今も世界中で読み継がれている作品です。全体主義的な風潮がじわじわと世を侵食する現代に通じるテーマを、この作品をから読み解きます。

主人公は本を燃やす「ファイヤマン」という仕事に従事するガイ・モンターグ。舞台の近未来では、本が有害な情報を市民にもたらすものとされ、所有が禁止。本が発見されると直ちにファイアマンが出動し全ての本を焼却、所有者も逮捕されます。代わりに人々の思考を支配しているのは、参加型のテレビスクリーンとラジオ。彼の妻も中毒患者のようにその快楽に溺れています。

最初は模範的な隊員だったモンターグでしたが、自由な思考をもつ女性クラリスや本と共に焼死することを選ぶ老女らとの出会いによって少しずつ自らの仕事に疑問を持ち始めます。やがて密かに本を読み始めるモンターグが、最後に選んだ選択とは?

この作品は、本を焼却し去り、人間の思考力を奪う全体主義社会の恐怖が描かれているだけではありません。効率化の果てに人々が自発的に思考能力を放棄してしまう皮肉や、「記憶」や「記録」をないがしろにする社会がいかに貧しい社会なのかも、逆説的に教えてくれます。そこで描かれている人々の姿は、GAFAやSNSに踊らされ、思考し何かを問い続けることをないがしろにしがちな私たち現代人をも鋭く刺し貫いていると、哲学者の戸田山和久さんはいいます。

さまざまな意味を凝縮した「華氏451度」の物語を【本を読むことの深い意味】【思考することで得られる真の自由】【権力にからめとられないための叡知】など多角的な視点から読み解き、混迷する現代社会を問い直す普遍的なメッセージを引き出します。



  • 第3回 6月14日放送「自発的に隷従するひとびと」
そして私がとても印象に残ったのがこの第3回放送です。
そしてそこには当たり障りのない低俗な情報しか飛び交うことのなくなった痛烈な現代の私たちの社会への批判がありました。

あまりにもその批判がど真ん中で、正直なところ自分の中でどう消化すれば良いのかまだ結論が出ていません。この本、1953年に書かれているはずなのに2021年にピッタリ当てはまるように思うのです。
そこでまずはそれをそのまま受け止めるべく、番組の中で朗読された言葉を書き下していきたいと思います。

この批判は本を燃やす仕事「昇火士(ファイアマン)」に疑問を持ち始めた主人公モンターグへの、上司であるベイティー隊長のお説教として語られます。


(※なお、NHKオンデマンドで110円で見ることが出来ます。
きっとそれ以上の価値を与えてくれる25分かと思いますので、ぜひご覧ください。)


以下の引用部分はすべて「6月14日放送の100分de名著 華氏451度の第3回放送」からとなります。


  • ベイティー隊長のお説教:なぜ人は本を読まなくなったのか

彼がまず饒舌に語り出すのはメディアの発達について。

「(略)ラジオ、テレビジョン、いろんな媒体が大衆の心をつかんだ。
そして大衆の心をつかめばつかむほど、中身は単純化された。
映画や、ラジオ、雑誌、本は、練り粉で作ったプディングみたいな大味なレベルにまで落ちた。」

なぜそうなったのか。
ベイティーは社会の加速化を理由に挙げます。

「十九世紀の人間を考えてみろ。
馬や犬や荷車、みんなスローモーションだ。

二十世紀にはいると、フィルムの速度が速くなる。
本は短くなる。圧縮される。
古典は十五分のラジオプロに縮められ、
つぎにはカットされて二分間の紹介コラムにおさまり、
最後は十行かそこらの梗概となって辞書にのる。

フィルムもスピードアップだ、モンターグ、速く。
カチリ、映像、見ろ、目
いまだ、ひょい、ここだ、あそこだ、急げ、
ゆっくり、
上、下、中、外、なぜ、どうして、
だれ、なに、どこ、ん?ああ!
ズドン!ピシャ!ドサッ!
ビン、ボン、バーン!

要約、概要、短縮、抄録、省略だ。」

高速化した社会では哲学や歴史 語学といった人文科学は役に立たないものとして疎んじられます。
時間がない中でもてはやされるのはすぐに楽しめる娯楽。
スポーツが人気を博し雑誌は活字を減らしてマンガやグラビア写真のページが増加。

更に市場が大きくなるとメディアは抗議の声を恐れ
どんな立場の人も不快に思わないよう配慮。
どれも当たり障りのない同じような内容になっていく。

「雑誌はバニラタピオカの口当たりのいいブレンド。
その一方で、本は皿を洗った後の汚れ水となった。
見てのとおりさ、モンターグ。
これはお上のお仕着せじゃない。
声明の発表もない、宣言もない、検閲もない、最初からなにもないんだ。
引金を引いたのはテクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャー。」




(フリップ)
人々が本を読まなくなった理由
①社会の加速化
②反省的思考から反射的思考へ
③単純化 ダイジェスト化 事なかれの均一化 低俗化



(解説の戸田山和久先生)
「テレビも本も同時進行的に劣化していった。
で、まあ何でもいいんですが―芸術に関しても学問に関しても芸能に関してもですけども…
『表現する』ということは、人の先入観を揺さぶったり、思い込みをひっくり返したり
ひっくり返される方にしてみれば、ちょっと不愉快 ちょっと不快な要素がどうしても入ってきますよね。
でもそれをその不愉快だとか傷ついたとかそういう抗議の声を恐れて、
表現者が自らその表現を手放していくという指摘がされています。
これはとっても現代においてね、リアルに当てはまるんじゃないかとなと思っています。」



  • なぜ華氏451度で本は燃やされるようになったのか


ベイティーはこうした社会の傾向は知識や教養を持つ「知識人」、いわゆるインテリへの憎悪に向かうと語ります。

「人はいつでも風変わりなものを怖れるな。
お前のクラスにもいただろう。
人一倍頭が良くて、暗誦したり、先生の質問に答えたりをひとりでやってのけてるやつが。
放課後、きみらがいじめたり殴ったりする相手に選んだのは、そういう俊才君じゃなかったか?

もちろん、そうだよな。
みんな似た者同士でなきゃいけない。


だからこそさ!
となりの家に本が一冊あれば、それは弾を込めた銃砲があるのとおなじことなんだ。
そんなものは焼き払え。弾丸を抜き取ってしまえ。心の城壁をぶち破れ。

家々がひとしなみに防火建築になってしまうと、世界じゅうで古くさい“ファイアマン”は必要なくなった(略)。
彼らは新しい職にありついた。

われわれの劣等意識が凝集するその核心部を守る人間
心の平安の保証人、
公認の検閲官兼裁判官兼執行官になったのだ。」

本を燃やすことは
人々にカタルシスを与えるエンターテインメントでもある。

ベイティーは続けます。

「黒人は『ちびくろサンボ』を好まない。燃やしてしまえ。
白人は『アンクル・トムの小屋』をよく思わない。燃やしてしまえ。(略)

なにもかも燃やしてしまえ。
火は明るい。日は清潔だ。

国民には記憶力コンテストでもあてがっておけばいい。
ポップスの歌詞だの、州都の名前だの、アイオワの去年のトウモロコシ収穫量だのをどれだけ憶えているか、競わせておけばいいんだ。(略)
もう満腹だと感じるまで“事実”をぎっしり詰め込んでやれ。

ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報収集能力を持っていることか、と感じるような事実を詰め込むんだ。
そうしておけば、みんな、しあわせになれる。」

「哲学だの社会学だの、物事を関連づけて考えるような、つかみどころのないものは与えてはならない。
そんなものを齧ったら、待っているのは憂鬱だ。」


心の平安には、複雑な思考など害悪。戦争など社会問題は考えさせるな。
ベイティーは本など読んでも無意味だと念押しして帰っていくのでした。


(解説の戸田山和久先生)
「まず一つ、インテリ 知識人に対する憎悪ってことが語られてましたけれども、まあこれ実は今に始まったことじゃなくて、もうずっと昔から。

何でそうなのかってことを考えてみると、知識人の売り物はまあ深い反省的思考なわけですけども、まあこれおっしゃったように複雑ですよね。

それからもう一つはまあ常識と違うことを言いがちですよね。
そうしますとやっぱり、自分の常識が揺さぶられて不安になる。
つまり心の平安が乱される。


みんな同じことを思ってるのが幸福でしょと。

ですからここで大事なのが、本を焼くっていうことが人々を支配するためだと言わないんですね。人々の幸せを守ってあげてるんだっていう。
でも本を焼くってことは同時に人々の思考を焼いて記憶を焼いているっていうことで、恐ろしいところかなと思います。」

「わかるようになろう、ではなく分からないものを世の中から消すのが近道。
で、まあ人々が既に本を読まなくなっているので、ほんとは昇火士の仕事は要らないですよね。じゃ昇火士の仕事って一体何やってんだっていうとまあある種のショーですね。パフォーマンスなんですよね。
ベイティーも言ってましたように、火は清潔だと。
まあある種の穢れを清める儀式として本を燃やしている。ちょっと宗教的ですよね。」




  • みんなが発信者になるSNS時代、この歌詞451度の言葉は私たち一人ひとりに大衆として知識人として発信者として当てはまるのではないか

なんだかこの話を聞いているととても複雑な気持ちになったのです。
華氏451度が書かれて70年近くが経ちました。
すっかりSNSが普及し、私たちは情報の受け取り手であると共に発信者となりました。
またある部分においては大衆的で、またある部分においては知識人的にもなったのです。

そんなとき、この一連のやり取りをみて言葉が出てきませんでした。
考えさせられることが多すぎたのです。

番組の後半で「私たちの現実の世界ではみんながファイアマンだ」という話が出ていました。
これは言うまでもなくインターネットを中心とした「炎上」のことですね。

『怒りは一番安いエンターテインメントだ』という言葉もありますが、
「これには堂々と怒っていいんだ」というネタが提供されると、みんなが一斉にそれに火をつける。
そして削除させ撤回させ謝らせる。この世から消し去る。テレビの人ならテレビから追放する。ネットの人ならネットから追放する。少なくともほとぼりが冷めるまでは。怒りがおさまり、エンターテインメントとして楽しくなくなるまでは。

けれども「堂々と怒っていい」ネタが提供されたからそうなっているわけでもある。

うーん、うまく自分の考えを整理できないです。
ただいずれにせよ、考えることをやめる人間になるのだけはすごく嫌だし、
自分は例え心の平安が乱されても物事を考えていないとおかしくなる人間なんだろうなとはすごく思いました。
そしてそんなことを思うのは、世の中では少数派なのかもしれないなとも感じます。

そんな6月14日放送の100分de名著でした。




華氏451度〔新訳版〕
レイ ブラッドベリ
早川書房
2014-07-28




華氏451 (字幕版)
ビー・デュフェル
2014-03-15