こんにちは、にどねゆうきです。
今日はまじめなやつです。


仕事をしていると思うことがあります。
それは、どうしたって可処分所得購買行動というのは切り離せないんだな、ということ。

(※可処分所得というのは「稼いだお金のうち、実際に使えるお金」のこと。手取りですね)


それを感じたのは「同じ商品を贈答用で買う方と普段使いで買う方がいる」ということからです。






たとえばデパ地下で。


アンリ・シャルパンティエとか、




たねやのクラブハリエとか、




それこそとらやの羊羹とか、



わたしみたいな低所得者は
これらの美味しいお菓子たちをみると『贈答か来客用だな』と感じるのですが、
世の中には『ふだんのちょっとしたお菓子に』召し上がられる方がたくさんいるわけです。


「そんなことある?!」と思われる方もいるかもしれません。(私もです)
ですが、売る側になるといかにそういった方々がたくさんいらっしゃるかというのを思い知らされます。


「ジャンクフード」と「お菓子」という線引きをもち、区別されている方などが多い印象ですね。
(ジャンクフードは食べないけれどお菓子は食べる、というような…私などその線引きが分かりませんが。)


個人的には「バームクーヘン」といえばヤマザキのこの子たちなのですが、
世の中には「クラブハリエが日常な方」もたくさんいるわけですね。


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日常的にクラブハリエを食べる光景を私が想像できないように、
高所得者の方からすると、ヤマザキのバームクーヘンを自分が食べている姿こそ想像できないものなのかもしれません。



この「所得によって購買行動が変わる」ということについて、
「実際にお金があるかどうかで行動が変わる」(経済資本のはなし)
「どんな育ちをしてきたか、どんな暮らしをしているかでモノを見る感覚が変わってくる」(文化資本のはなし)に分解して考えることが出来ます。



後者についてはとくに趣味の世界の話が分かりやすいでしょうか。


時計。芸術。絵画。
私もよく知らないので例示すらできませんが、
そもそも「こんなジャンルあったのか...」というものが世の中にはたくさんあるわけです。


そしてそういった高所得者の趣味は、
私たちのような低所得者からすると「良さがよく分からない」ことがあります。
(たとえば超高級機械式時計の魅力や現代アートの良さなど)

これは良さが理解できる感受性・思考回路を私たちが持っていないということです。



とくに育った環境によってモノの感じ方・見方というものは変わってきます。
経済的な格差が認知やものの考え方の差(文化資本)へと繋がり、それが次の世代で再生産され、格差が固定化されていく。

20世紀の最も重要な社会学の書に選ばれた、ピエール・ブルデューの「ディスタンクシオン」はそんなことについて述べた一冊です。






⓪なぜ「格差」や「階級」は生まれ、どのようなメカニズムで機能し続けているのか?

この大きな疑問に回答をもたらそうとした名著があります。
フランスの社会学者、ピエール・ブルデューの「ディスタンクシオン」。

20世紀でもっとも重要な社会学の書10冊にも選ばれた名著です。

階級や格差は単に経済的な要因だけから生まれるわけではありません。

社会的存在である人間に常に働いている「卓越化(ディスタンクシオン)」によってもたらされる熾烈な闘争の中から必然的に生まれてくるといいます。

番組では、この名著を読解することを通して、知られざる階級社会の原因を鋭く見通すとともに、「趣味」と「階級」の意外な関係を明らかにしていきます。




①階級は経済的な原因から生じるという既存の論に対し、全く新しい観点から「階級社会」を生み出す目に見えない要因に光を当てたブルデュー。

そのために編み出した概念が「ハビトゥス」だ。

ハビトゥスを一言でいうと、身体に刻み込まれた、行動・知覚・評価の図式。幼少期から、言葉遣い、身のこなし、趣味趣向といった形で家庭の中で植え付けられたハビトゥスは、所属階級の性向が刻印されており、その後の人生の選択に大きな影響を及ぼす。

つまり人生のスタート段階から格差の芽が生まれているというのだ。

第一回は、ブルデューが編み出した「ハビトゥス」という概念がどんなものかを読み解き、私たちの趣味や趣向が、学歴や出身階層によっていかに規定されているかを明らかにする。



③私たちは生み落とされたそのときから、「ハビトゥス」を通して、身振りや言葉遣い、趣味、教養といった体に刻み込まれていく文化能力をも相続していく。

そのように相続されたもののうち経済的利益に転換できるものを「文化資本」と呼ぶ。

文化資本は経済資本ほどはっきりとは目に見えないが、蓄積することで学歴や社会的地位、経済資本へと変換可能になり、大きな利益を生む。

文化資本の多寡は、自らが属する社会的階層によってあらかじめ決定づけられ格差を生み出していく要因になっているにもかかわらず、「努力によって獲得されたもの」と誤認されることで巧妙に隠蔽される。

第三回は、「文化資本」という概念を通して、文化が、人々の行為を規定するものとして、社会の隅々まで力を及ぼしていることを明らかにする。



趣味も経済資本と文化資本によって偏ってくるというのがブルデューの考え方です。

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これは今に始まったことでもなく、良いことでも悪いことでもなくただ「社会の現実」です。

高度経済成長期は有り余る富で「一億総中流」を生み出しましたが、再び格差のある元の社会に世界は戻ろうとしています。

そうした中で人々が経済的な面からも文化的な面からもお互いに分断された意識を持つこと、お互いに分かり合えないと思ってしまうことは分断を加速させ、現代のアメリカのように社会不安を呼びます。民主主義の危機です。



逆に言えば共通の価値観、分断を乗り越えて会話を出来るものがあれば
それは社会を安定化させる力を持ち得ます。

そうした中で日本におけるサブカルチャー特にゲームは現在も、また未来においてもこうした分断を阻止できる可能性があると私は感じています。



経済・文化資本によって趣味が変わってくるというのは本当にそうなんですよね。

お金のかからない趣味というのはいくらでもあって、例えば教養(勉強)というのもそうだし、囲碁や将棋だってお金はかかりません。

ですがこうした趣味はある程度の文化的素養がないとその面白みが分かりにくい。それゆえに手厚い文化資本を持つ方だけが楽しむ傾向にあります。



その点テレビゲームは経済資本・文化資本の壁を乗り越えて万人の共通言語になり得る次の3つの特長をもっています。



①お金がかからない(経済資本の壁が低い)

1円もかからないという話ではありませんが、
乗馬や現代アート、高級腕時計と比べたら明白でしょう。
とくにテレビゲームの素晴らしいところは、
どれだけやり込んでもお金がかかるわけではないというところ。

スポーツでもゴルフなんかは練習するのにもお金がかかりますから。



②とっつきやすい、すそ野が広い、奥深い(文化資本の壁が低い)

お金がかからない趣味のなかでも、テレビゲームの特徴はとっつきやすいこと。
とくに最近のゲームはとても親切になりました。

ゲームというもの自体がコミュニケーションツールとしての側面を持つこともあり、友達の家に遊びに行って初めてプレイした、という経験のある方も多いでしょう。そしてその後おねだりして買ってもらった方も。

ゲームの面白さというのは比較的分かりやすいんですよね。あまり文化資本を要求しない。それでいて奥深い。

そのため、文化資本の高い方も文化資本の低い方も、テレビゲームというのはとっつきやすく、そしてハマることが出来ます。


またスポーツも似たような面を持ちますが、身体的なスポーツに比べてゲームは体力の壁・年齢の壁をも超えてくれます

子供とお爺ちゃんが本気で戦えたりするのも良さですよね。
とくに世代間のギャップ、分断というのは日本でも非常に問題になっていますので大切なことです。



③子供のころに経験していることが多い


①②の特性上、テレビゲームは子供のころに経験していることが多いです。
しかもとっつきやすいわけですから、その楽しさも理解していることが多い。

分断を阻止するための共通言語として、これはとても大切なことです。






以上の①②③からゲームは経済資本・文化資本の壁を乗り越えて、お互いの理解を促進する共通言語としての趣味となり得、分断が広がるこの世の中においての救世主かもしれないと思いました。





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別に難しい話ではなく、Twitterでゲームが趣味の皆さんと色んな壁を乗り越えて交流していると、そんな夢を見るのです。


世界がもっと優しくなりますように。